2008年05月20日
ベアトリーチェとフィレンツェ追放
この背景には何があるんでしょうね。
調べてみました。
ダンテを代表する最初の詩文作品、『新生』によれば、1274年の5月1日に催された春の祭りカレンディマッジョ(Calendimaggio) の中で、ダンテは同い年の少女ベアトリーチェ(ビーチェ)に出会い、魂を奪われるかのような感動を覚えたという。この時、ダンテは9歳であった。
それから9年の時を経て、ともに18歳になったダンテとベアトリーチェは、聖トリニタ橋のたもとで再会した。その時ベアトリーチェは会釈してすれ違ったのみで、一言の会話も交さなかったが、以来ダンテはベアトリーチェに熱病に冒されたように恋焦がれた。しかしこの恋心を他人に悟られないように、別の二人の女性に宛てて「とりとめのない詩数篇」を作る。その結果、ダンテの周囲には色々な風説が流れ、感情を害したベアトリーチェは挨拶すら拒むようになった。こうしてダンテは、深い失望のうちに時を過ごした。1285年頃に、ダンテは許婚のジェンマ・ドナーティと結婚した。
二人の間にさしたる交流もないまま、ベアトリーチェもある銀行家に嫁ぎ、数人の子供をもうけて1290年に24歳の若さで病死した。彼女の夭逝を知ったダンテは狂乱状態に陥り、キケロやボエティウスなどの古典を読み耽って心の痛手を癒そうとした。そして生涯をかけてベアトリーチェを詩の中に永遠の存在として賛美していくことを誓い、生前の彼女のことをうたった詩をまとめて『新生』を著した。その後、生涯をかけて『神曲』三篇を執筆し、この中でベアトリーチェを天国に坐して主人公ダンテを助ける永遠の淑女として描いた。
13世紀当時の北部イタリアは、ローマ教皇庁の勢力と神聖ローマ帝国の勢力が対立し、各自治都市はグェルフィ党(教皇派)とギベリーニ党(皇帝派)に分かれて、反目しあっていた。フィレンツェはグェルフィ党に属しており、ダンテもグェルフィ党員としてフィレンツェの市政に参画していくようになった。1289年には、カンパルディーノの合戦にて両党の軍勢が覇権を争い、血みどろの戦いを繰り広げた。この時ダンテもグェルフィ党の騎兵隊の一員として参加している。その体験は『神曲』地獄篇第22歌の中に生かされており、凄まじい戦闘の光景が地獄の鬼と重ねられている。
グェルフィ党はこの合戦で辛くも勝利をおさめたが、内部対立から真っ二つに割れてしまった。教皇派の中でも、フィレンツェの自立政策を掲げる富裕市民層から成る「白党」と、教皇に強く結びつこうとする封建貴族支持の「黒党」に分裂、両党派が対立したのである。小貴族の家柄であるダンテは白党に所属し、のちに百人委員会などの要職に就くようになった。当初市政の政権を握ったのは白党で、1300年には白党の最高行政機関プリオラートを構成する三人の統領(プリオーレ)が選出され、ダンテもこの一人に任命された。
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